民主法律時報

「学校の先生は働いていない」 ―教員の「働き方改革」論議に欠けているもの―

龍谷大学名誉教授 萬 井 隆 令

1 現状

「『学校の先生は働いていない』って本当なの?」と問われて、どう答えるか。答えはイエスかノーだが、今、どちらも「正解」という奇妙な状態のままで、教員の「働き方改革」論議が進んでいる。

私が園芸店で梅の苗木を買ってきて庭に植えるのは自発的な「庭仕事」だが、店員が店長の指示を受けてやれば「労働」である。作業は同じでも、他人の指示を受けているか否かが「庭仕事」と「労働」に区分する。教員は、授業に使う資料の作成を含む準備、定期試験問題作成や採点、生徒の相談にのること、進学用の成績証明書の作成等々(諸業務)をしなければならないし、やっているが、今、それらは判例により「自発的活動」として扱われ、「労働」ではないという理由で、つまり「働いてない」から、賃金(超勤手当)は支払われない。教員の時間外労働は平均で60時間/月近いが、それがすべて「庭仕事」と同様に扱われている。

2 「教員の働き方改革」の盲点 

最近、しばしば、学校教員が不足しているため、授業ができず「自習」が増えている、教員志望者が減っている、うつ病など精神障害のため休職状況の教員が毎年、5000人くらいいる、東京高裁が超勤手当の支払い請求を退けた等々、教員に関わる記事が紙面に載る。5月10日には自民党の特命委員会(委員長・荻生田政調会長)は公立学校教員給与特別措置法(給特法)の改正を提言したと伝えられる。それらの記事の中で、必ずと言ってよいほど、給特法は、超勤を命じられるのは校外実習など4項目に限られ、教職調整額(月給の4%)が支払われるが、それ以外の仕事は「自発的活動」とみなされ、賃金は支払われないと定めているという類の解説がされている(4月29日「毎日新聞」)。

甚だしい誤解である。そもそも給特法は、50年ほど前、教員に超勤手当を支払わないことは違法だとする判決が相次ぎ、静岡市教組事件で最高裁が同様の判断をすると見越して(最3小判昭47.12.26)、それに対処するために制定されたもので、その法律に、超勤があっても手当を払わなくても良いと定めるわけがない。教員の諸業務は文科省の『学習指導要領』によって教育課程全般にわたる配慮事項や授業時数の取扱いから各教科等の目標、内容が定められ、個々の教員は担当するクラスや科目が決められるから、包括的な指示を受けており、それに従って仕事をしている。給特法の改正を議論するのは良いが、今、教員の諸業務を法的に「労働」とみるのか否かが正面から問われていない。それが論議の盲点となっている。

給特法は具体的にはどう定めているのか、それがなぜ現状を導いたのかを正確に確認しないままでは、法改正が行なわれても、少しも事態は改善されないことになりかねない。

3 給特法の構造

給特法は複雑だが、地方公務員法58条3項は、教員には労基法「…第32条の3から第32条の5まで、第38条の2第2項…」は適用除外とし、33条3項は適用されることとした。36条は適用除外されていないことに注目する必要がある。

給特法および文部省と人事院の協議、地方自治体の給特条例も含めて要約すれば、教員の労働時間制はつぎのような全体構造となっている。

(1) 教員の業務――2種に分類
給特法は教員の業務を限定4項目とその他の2種に分類した上、超勤は命じないことを原則と定めている。

(ア) 限定4項目

限定4項目は、①生徒の実習、②学校行事、③教職員会議、④非常災害等やむを得ない場合の対応であり、それに対してのみ、労基法33条3項により(36協定を結ばなくても)超勤を命じ得る。

②学校行事とは「学芸的行事、体育的行事および修学旅行的行事」を指し、④非常災害等やむを得ない場合とは「児童・生徒の負傷疾病等人命にかかわる場合における必要な業務」と「非行防止に関する児童・生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする業務」のいずれかで、かつ「臨時又は緊急にやむを得ない必要がある時に限る」。そして、その超勤には教職調整額(基本給の4%)によって対応し、超勤手当は支払わない。

(イ) 限定4項目に含まれない諸業務(通常業務)
通常業務につき必要がある場合は「勤務時間の割り振り」によって調整し、全体として法定労働時間内に収まるように処理する。「調整」とは、例えば月曜日に3時間超勤した場合、木、金、土は1時間早く切り上げて、1週間単位では法定時間内に収まるということである。「調整」でも処理仕切れない場合は、労基法36条に基づき現場の教員と36協定を結んで超勤をする(当然、手当ては支払う)ことになっている。

(ウ) まとめ
労基法36条は法定時間外労働を予測し、それを合法的に行なう手続きとして36協定の締結を求めている。給特法が同条を適用することは、教員にも36協定の締結を条件として時間外労働をさせることができるということであり、それは教員の諸業務は「労働」であると認識することを意味する。限定4項目については労働時間の上限を定めていない欠陥もあるが、給特法は実際に労働させた場合に超勤手当を払わなくても良いなどと定めてはいない(労基法に反するから、定められるわけがない)。給特法の国会審議は労基法36条が適用されることの確認から始まったが、そのことの重要性を再確認する必要がある。

(2) 当初の事情とその後の給特法の運用
当初は、諸業務もそれほど多くはなく、「調整」で処理されていたようである。政府・自治体はそれに馴れて、教員の超勤手当のための予算を組んだことがなかった。その後、教員の仕事の種類、量が徐々に増えていったものの、予算がないから手当ては支払われない状況が続き、それが今のような、給特法がそう定めているという認識に捻じれてきた。それには文部省、労働省、そして一部の教員が提起した超勤手当支払い請求を奇妙な論理で棄却し続けた裁判所の責任が大きい。労働組合は現場の違法状態を糺し、正常化する社会的責任があるとすれば、36協定締結を運動化しなかった労働組合(日教組、全教)にも責任の一端がある。

超勤手当支払請求を棄却した裁判所が示した判旨は、常識に照らすと驚くような内容である。最初の松蔭高校事件で名古屋地裁は、超勤に対しては手当が支払われるが、当該超勤が「命ぜられるに至った経緯、従事した職務の内容、勤務の実状等に照らして、それが当該教職員の自由意思を極めて強く拘束するような形態でなされ…常態化しているなど」、放置することが超勤を限定列挙する給特法等の「趣旨にもとる」と認められる場合に限られるとし、訴えられた事案ではそのような場合には当たらないと判示した(名古屋地判昭63.1.29)。進学に必要な書類を作成している教員に、校長が「よろしく」と言いながら職印を渡したのは、作業を続けるよう指示したのではなく「激励」ある、定期試験の日程表を掲示したのは、その日程に合うように試験問題を作成し、実施せよという指示ではなく、教員が日程表を見て自主的に作業をしたのであるといった、そもそも「指示」がないから「労働」はないという屁理屈の類である。

その後、同趣旨の判決が相次ぎ、給特法上、「自発的、自主的な意思に基づいて遂行」したものは「労働」ではないとする理解が今や「確立した判例」である。新聞記事などの解説は、教員が日々やっている諸業務は「庭仕事」と変わらないと広報する役割を果たしている。

4 「働き方改革」の問題点

政府は教員の「働き方改革」を提唱しているが、その理論的基礎は中央教育審議会の2019年1月25日『答申』である。中教審は幾つかの労働時間短縮策を提言するが、「労働」概念に関しては、教員の超勤は「自発性・創造性に着目し、教師が自らの判断で『自発的』に勤務しているものと整理されてきた」と指摘するだけで、「整理」の問題点を指摘するわけでもなく、教員は職務命令を前提とした時間管理には馴染まないから、給特法は勤務時間の内外を問わず包括的に評価していると、「確立した判例」を追認して終わる。

『答申』をまとめた部会長の小川正人放送大学教授は、試算では教員の働き通りに教職調整額を払うと年間1兆数千億円必要で、給特法改正案も検討はしたが、「時間外勤務を広く認めれば、教員の給与を増やさざるを得ない…財源を期待できない以上、実現は無理でした」と釈明している(2018年12月24日「毎日新聞」)。

その後、『答申』を承けて、部活動の指導を外部の専門家に委嘱するとか在校時間を制限する等が実施されてきたが、目覚ましい効果を上げてはいない。運動部の対外試合や遠征の際には、宿舎の手配等は教員がやらざるを得ない。「在校時間」を制限しても、仕事があれば「風呂敷残業」で処理するだけのことである。自民党の案は、教職調整額を10%以上にするというが、小手先の改革では事態の改善は望みがたい。

5 虚構をいつまで続けるのか

この問題には奇妙なことがある。文科省の調査では、教員の平均残業時間は中学で約58時間だといったことが報道されるが、その「残業」は何を基準に測定したのか。法的にはすべて「自発的活動」で「労働」は存在しない(だから、手当ては払わない)のではないのか。長時間労働の存在とその弊害を指摘しながら、法的には「労働」は存在しないという虚構をいつまで続ける気なのか。有識者で構成する中教審の責任者が政府の財源を忖度して、正面から改革案を検討することを避けるような事態を容認するのか。「有識者 政府の意向 汲める人」という川柳を苦笑いしながら頷いている場合ではない。うっかりしていると、給特法改正に際し36条が適用除外されかねない。

「自由意思を極めて強く拘束」する指示に従った場合だけが法的な「労働」だということが、教員以外に、一般の労働者にまで波及しないという保証はない。サービス残業は今も残るが、本当に「サービス」でやっているわけではあるまい。「労働」は「労働」と認め、実際になされた場合には相応の賃金を支払う、当然そうあるべきことである。その場しのぎの「改革」ではなく、給特法を正確に解釈するとともに、「労働」とは何か、何を基準に判断するのか、正面から考える時ではあるまいか。

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