民主法律時報

《寄稿》「大企業労働者の主体形成」についての一試論

島根大学名誉教授 遠藤 昇三

 「大企業労働者の主体形成」というそのものずばりの元島邦夫氏の本(1982年、青木書店)によっても、大企業労働者の主体形成がどう出来るのか、不明であった。『民主法律時報』2020年6月号で私が紹介したように、新福祉国家目指す勢力において変革主体として大企業労働者が設定されていない状況にある。大企業労働者の主体形成という問題は、現代における焦眉の課題と思われる。それに関して考えていることを述べてみたい。但し、ここで問題とするのは、大企業労働者の「労働者の権利あるいは労働組合運動の主体」という側面に限定する。また、大企業労働者とは、特に現在では正規かつ基軸の労働者を指す。そして、主体形成の主として精神面を扱う。

最初に、大企業労働者の状況を、歴史的に大まかに振り返っておく。第一段階は、戦闘的労働組合運動が支配的な時代(戦後から1960年まで)であるが、当初は、その戦闘的労働組合運動の担い手として、大企業労働者が存在していた。しかし、それが取り組んだ大争議(例えば、全自動車日産分会)の敗北、それは、企業側の総力を挙げた争議・組合潰しと、それに迎合した企業意識の強い管理職及び労働者による第二組合の形成とその多数派化によるものであったが、それにより大企業における戦闘的労働組合運動は、衰退して行く(その最後が、1960年の炭坑労働組合三井三池労組の敗北である)。そして、第二段階である企業社会が成立(確立段階を含めて、1980年代半ばまでの時期である)する。大企業においては、協調的(単に労使協調的と言うより、企業協調的な)労働組合が支配的となり、大企業労働者は、労使共同の抑圧の下、企業社会を基本的に受容する、強力な企業意識(従属・依存的)に浸されて行く。そこでは、大企業正規労働者は、企業の利益を何よりも優先し、自らの労働者性を否定ないしは希薄化させ、他方では非正規労働者に対する差別・優越意識を進化させて行く(非正規労働者を組合員としないということが、その端的な表現である)。第三段階は、それ以降今日までだが、大企業の多国籍(グローバル)企業化に、労働者は自らを適合させて行く、単なる従属・依存を超えた労使一体化とさえ言える。企業社会の解体を含めた日本的労使関係の再編は、賃金を初めとした労働条件の低下どころか雇用さえ守れない、雇用形態の多様化とりわけ非正規労働者の多様化と増大、正規労働者の多様化・不安定化・縮小という状況を、作り出している。そうした状況にあるからこそ、大企業労働者の中心である企画・研究・管理的労働者層は、多国籍企業の動向を支持しその海外展開と他方での国内的再編を一層進めるべく、国家・政府・財界の新自由主義的改革を支えているのである。

では、第二に、大企業労働者の性格・意識・心性は、どう捉えられるであろうか。一つは、強弱なり中身の差異はあれ、企業意識が強いことである。勿論、企業意識のない大企業労働者は存在しないであろうが、他の意識(例えば組合意識や市民意識)と両立しうる意識であるかどうかという点で、大変心許ない。過労死・過労自殺した大企業労働者の大半が、企業批判なり敵対的な心情・気持ちを示すどころか、企業に謝罪しているのが、実態である。また、過度に企業尊重的であり、他の労働者をリストラした自分自身がリストラされても抵抗しないのが、その証である。もう一つは、大企業労働者性への固執である。長期雇用を含めた大企業労働者であることの利益を享受しかつ享受し続けようとする、その利益の喪失に脅える、すなわちエゴイストである。非正規労働者への差別意識、逆の優越意識(自ら非正規労働者に落ち込むことへの恐怖に裏打ちされた)は、それに基づく。それらを根底において支えるのが、労働者間の過度の競争でありその受容である。そして第三に、現代において特に留意すべきなのは、帝国主義的市民性である。市民であれば、他民族抑圧を本質とする帝国主義に反対するとは、限らない。帝国主義を擁護し積極的に推進する、少なくともその政策展開を黙認するとすれば、彼らは、帝国主義的市民である。多国籍企業の労働者は、自らの企業の利潤特に海外からの利潤の獲得に積極的・消極的に協力する限り、この帝国主義的市民であると言わざるをえない。彼らは、必然的に、国内的な(企業内も含む)自由と民主主義を否定しがちである。

では第三に、大企業労働者は、如何にして主体となりうるのであろうか。私は、大企業労働者の主体形成は大変に難しく決定打はないし、主体形成の道筋も明確になっていないと思っている。ただ、ここまでの展開を前提とすると、企業外からの市民運動からの批判や国家的規制(現状では非常に不十分だが)が必要であることは、言うまでもないが、大企業労働者の内側からの変革に、(絶望的見通しを持ちつつ)期待したい。即ち、上述の否定的なあるいは消極的な性格・意識・心性の自己否定・自己変革を、大企業労働者自身の努力により、獲得することである(要は、池井戸潤原作の「やられらたやりかえす。倍返しだ」と不正・不当に立ち向かう半沢直樹くらいになれということ)。大企業と対立し大企業及びその労働者から敵として捉えられている少数派労働者・労働組合が依拠し共同すべきなのは、この自己否定・自己変革であり、かつその点において自らとの違いがないという捉え方・構え方が、不可欠である。両者を異質なものとしている限り、依拠・共同は、ありえない。

民主法律時報アーカイブ

アーカイブ
PAGE TOP