会長 萬 井 隆 令
今年は、例年以上に、「明けましておめでとうございます」とすなおには言いにくい気がします。
東北大震災とそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故は国民に大きな問いを投げかけたました。震災の何割かは人知の及ばぬところもあるかもしれないとしても、原発は人間が創造したものであり、その事故はすべて創り出した人間に責任があります。40年運転した後、廃棄するまでに30年以上かかるというだけで工作物としてまともではありません。しかも、放射性廃棄物の処理の方法や場所、子孫への影響など分からないことだらけですが、人間が創り出したものは人間が葬らねばなりません。
民主党の、政権交代を元の木阿弥にするような昨今の諸政策-沖縄普天間基地の移転問題、消費税増税、大規模コンクリート事業の再開、TPP問題など――をみると、政治というものに悲観的になり、眼をそむけたくなりますが、それでは、だれかの思う壺にはまることになります。
大阪で浮上した教育と職員にかかわる2つの条例案は、単に大阪の問題としてだけみているわけにはいきません。職員基本条例案前文は「これからの都市間競争を勝ち抜くためには…」と書き出しますが、地方自治体は隣の自治体とも互いに協力しながら住民の安全や福祉を回復し、維持し、向上させることが使命のはずで、隣の県に「勝つ」とか「負ける」という性格の問題ではないと思います。何を「競争」し、どうなることが「勝ち抜く」ことなのか。「地域経営」などという言葉があるところを見ると、自治体と営利企業とを取違えているのでしょうか。
リーマンショックを期に横行した派遣切りに対し、ユーザーとの労働契約関係の存在確認を求めた裁判で判決が相次いでいますが、下級審は松下PDP最高裁判決の前に拝詭し萎縮し、憂うべき理論的頽廃状態に陥っています。事実認定は粗雑だし、結論だけで理由付けのない判決もあります。「事実上の支配従属関係」といった労働法学上の基礎的概念を理解できていない判決も困りものですが、遂に、労働者が直接雇用を申込んだことを「内容的に、自らが被告でなく派遣元に雇用されていることを前提とする行為」と指摘し、それを被告ユーザーとの労働契約関係の存在を否認する根拠の1つとする判決まで現れました(日本化薬事件・神戸地姫路支判平23.1.19労働判例1029号―大阪高平23.10.25はそのままで控訴棄却)。そのような論理によれば、法形式上の使用者ではなく、真実の使用者と考えるものを相手方とする労働契約関係存在確認の裁判を提起することは一切できないことになり、理不尽の一語に尽きます。裁判というものの役割をどう考えているのでしょうか。
いつの世も、怒りたい、不満だということは多く、中国の詩人・杜甫は、人の世は人の力で良くすることができると信じていたからこそ、いつまでたっても良くならない世を観て痛憤し、怒り・嘆きの詩を書いたといいます。私達は「詩を書く」だけでは足りません。昨年は、国際的には民衆のデモが一国の政治を動かすことが実証された年でもありました。政治も社会も人の力で良くする以外にないのですから、「専門家いつもはどこで何してる」(池俣淳)と皮肉られないよう、労働組合も弁護士も研究者もそれぞれ持ち場で、日本再生に向けて、顔を上げ、前を見つめ、智恵を凝らして……。