民主法律時報

《寄稿》元号の使用と「先生」という表現について(主として弁護士の方々へ)

島根大学名誉教授 遠 藤 昇 三

長年にわたって気になっていたのですが、発言する機会がなかった二つの問題について、述べることにします(勿論、既に多くの人により語られてはいますが)。

まずは、元号使用の問題です。元号制を採用することそして元号の強制使用は、(天皇制の是非をおいても)世界の(さしあたり西暦を使用する)動向に逆行するものです。天皇という一世一元は、天皇という一個人(たとえそれが国民の象徴であれ)に歴史と時間において同一化するものであり、また世界と異なる時間軸を設定するものです。元号法が成立する以前においては、元号の使用の法的根拠に欠けるということで、反対すれば済みました。元号法が成立している現段階では、元号法の廃止を求めるべきではありますが、その実現性に乏しいことから、次のような提案をしたいと思います。

一つは、元号の使用の権力的な強制に反対し、その撤廃を求めることです。弁護士・法律家に身近なところでは、法律等の法令の公布・施行日、裁判所の事件番号・判決日等は、元号でのみ表示され、これらは、元号の権力的使用の強制と言えます。これについては、元号それ自体の使用を批判し異議を唱えても、改められる見通しはありません。考えられるのは、元号使用の上で西暦を併記することです。この主張であれば、元号のみの使用の場合における不便さといった便宜的あるいは効率的主張をも包含出来るので、現実性を持つでしょう。

もう一つは、社会的強制への抵抗です。まずは、自らが、必要もないのに元号を使用することは辞めることです(内橋克人──残念ながら、最近逝去されました──というまともな評論家でさえ、元号のみ使用している例があります)。日弁連の文書における元号の使用は、権力的強制ではないに拘わらず、言わば社会的強制として行われています。これを改めること、元号使用がやむを得ないのであれば、西暦を併記すべきです。いずれにしても、元号使用の権力的・社会的強制の排除は、「まず隗より始めよ」です。そうした行動が社会的に定着して初めて、元号法廃止への道が見通せるのだと思います。

次は、弁護士を「先生」と表現することの問題性です。弁護士相互間、事務所等の職員、依頼者・相談者において、弁護士は「先生」と表現されます。特に、依頼者・相談者からすれば、弁護士が「先生」である限り、弁護士へのアプローチは敷居が高い、あるいは主体的な協力・共同よりも、受動的なお任せになりかねません。対等な立場である者同士では、「さん」付けが当然であり、そういう民主的な関係が、弁護士と他の人々の間に構築されることが、望まれます。とは言え、この言わば慣行は、簡単には改善されないと思います。私の経験(島根大学における教員相互間と短期間の弁護士の時期にのみ限定されますが)からしても、そう思います。島根大学においては、「さん」付け社会は民主的、「先生」呼ばわり社会は非民主的と了解して、「さん」付けを貫き通しましたが、外の人々はいつの間にか、「先生」呼ばわりを何とも思わない状況となってしまいました。弁護士の時期においても、弁護士に対して全て「さん」付けで通しましたが、他の弁護士が「さん」付けに変わるという経験は、皆無でした。そうしたことを踏まえれば、いくら「先生」という表現を辞めろといっても、簡単には変わらない、あるいは一時的に改善されてもいつのまにか元に戻る、ということになるとは思います。それに、個々の人からすれば、「先生」を辞めるのであれば別の選択肢があるのか、いきなり「さん」付けには抵抗があるとは思います。では、「・・・弁護士」あるいは「・・・弁護士さん」ではどうでしょうか。これであれば、少しは抵抗感が和らぐように思いますが。いずれにしても、先ずは弁護士同士で 「さん」付けを徹底することから始めるべきでしょう。

各方面から長年指摘されながら改善されなかった慣行であるだけに、難しいとは思いますが、「モ・ヒ・ベの団結」(戦前における治安維持法・治安警察法等による刑事弾圧における裁判闘争に関してモップル=大衆と被告と弁護士とのあり方について強調されたもの)を広く実践して来た民法協であれば、出来るはずだと信じています。

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