民主法律時報

《寄稿》平等と能力・競争主義について考える

島根大学名誉教授 遠藤 昇三

新自由主義的改革により生じた貧困・格差社会の克服に向けて出版されたのが、「脱〈自己責任=格差社会〉の理論」という副題の付いた竹内章郎(岐阜大学)等『平等主義が福祉をすくう』(青木書店、2006年)であった。その問題意識の一つとして示されたのが、第二次大戦後の日本においては、自由と平等を対比して平等の方がより不十分・少ないというものである。その点の評価をするつもりはない(また、自由と平等の非対立的捉え方についても触れない)。貧困・格差社会とは、言い換えれば不平等社会であるから、それの克服の理念として「平等」を対置することには、異論はない。

しかし、戦後日本の平等とは、能力主義(言い換えれば競争主義)と両立しうるという限界を抱えていたこと、能力・競争主義から脱却した平等の確立が求められるのではないか、ということを、ここで論じたい(これは、『民主法律時報』568号の拙稿「大企業労働者の主体形成について」の補足でもある。以下、大企業労働者を念頭に置いて議論する)。

第二次大戦前の日本は、{一君万民=天皇を除く国民(=臣民)は平等とされつつ}実質的には貴族・官僚・臣民・その他(アイヌ民族、日本国籍外国人等)という身分制社会即ち不平等社会であった。その歴史を踏まえ、日本国憲法は、第14条により、平等を原則とするに至った。しかし、その平等とは、いろいろに解釈されるものであり、さしあたり機会の平等即ちスタートラインの平等を、最低限の意味内容とするものであった。実質的な平等や結果としての平等は、理想論としてはともかく、現実的に意味のある平等論としては、社会的に定着しなかった。そして、同じスタートラインからスタートして以降の競争は、全くの自由であり、かつあらゆる意味で平等(即ち、国籍・性・信条等の違いによる差別を否定する)であるに拘わらず否それが故に、能力の差異そしてその結果による違いを、承認するものであった。その上で押さえておくべきことは、第一に、その「平等」は、建前であって本音ではなかったのではないかということである。つまり、平等という主張に対して、正面からは異論を唱えず同意する、しかし本音においては、必ずしも不平等を排斥しないものであった。第二に、平等に関する考え方が多様であり、平等についての合意形成が不十分であったように思われる。以上から帰結するのは、「平等」として異論なく合意されたのは、結局は機会的・形式的平等即ちスタートラインの平等でしかなかった、従って平等の意味内容が、貧困であったと思われる。

そして、そうした平等観を労働者も容認していたが故に、企業社会が進める能力主義的・競争主義的な人事・労務管理に対抗出来ず、受容して来たのである。出発点は、工員(=ブルーカラー)と職員(=ホワイトカラー)の身分差別の撤廃としての平等要求であった。それは、ただちには能力・競争主義を容認するものではなかった。しかし、企業の人事・労務管理の労働組合による統制が出来ない限り、企業の支配が貫徹する、従って企業が能力・競争主義を導入するに到ると、労働者はそれに対抗出来なかった。しかし、それ以上に問題となるのは、労働者が、進んでそれを受容したことである。労働者は、能力・競争主義に対抗しそれを克服する原理を、持ちえなかったのである。そこから、いわば無制限の「労働者間の競争、昇進・昇格をめぐる競争、さらに企業間競争等」に、労働者は、巻き込まれて行くのである。その上に、企業による差別と分断が重なり、相互に促進・強化し合うのであるから、労働者は、労働者間の連帯・団結から遠ざかって行かざるをえないのである。

では、その能力・競争主義にいかに対抗し克服して行くべきなのかが、問題である。まずは、能力主義的競争を肯定した場合には、三つのことが考えられる。一つは、形式的平等即ちスタートラインの平等が、必ずしも成立しないことの自覚の形成である。企業による労働者間の差別・分断により、既にスタートラインにおける格差が生じているのであって、言い換えれば、公正・公平な競争にならない状況にある。そこから、(その上に加わる)能力主義的競争を制限すべきことが、帰結される。もう一つは、過度の競争の制限である。労働者の権利・利益の擁護・増進にとって、競争は、マイナスに作用する。そうとすれば、最低限、競争の過度性を緩和することが、目指されねばならない。さらに、能力評価の恣意性や不公平性の排除、公正な評価の確立である。評価の基準ややり方次第によって、労働者の納得を得た競争にまでは改善することが、可能であろう。

次に、能力・競争主義それ自体の克服が、やはり目指されねばならない(今直ちに克服に向かうことは、不可能であろう。従って、能力・競争主義の肯定の上での制限、という道の延長線上のことになろうが)。競争とは、簡単に言えば、労働者間の差別・分断の促進・強化であるが、労働者は、自らの権利・利益の擁護・増進のためには、相互間の連帯・団結が欠かせない。競争の肯定は、連帯・団結の否定であり、連帯・団結には開かれていないしそれに向かわないのである。しかも、強調すべきなのは、競争の否定は、ただちには連帯・団結に結びつかないことである。連帯・団結に結びつくには、「大企業労働者の主体形成」が、不可欠である。本稿が、上述の前稿の補足となる所以である。

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