民主法律時報

西谷 敏 著『人権としてのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)』

評者・弁護士  大江  洋一

西谷さんが一般向けの本を出版したことはこれまであまり知らない。一般にはこのような書物は肩肘を張らず、悪くいえばやや程度を落として書かれるものだろうという先入観を抱きつつ読み始めたが、読み進むにつれ、その予想は見事に外れた。本書の内容は専門書・体系書に全くひけをとらないものであり、むしろ学者の議論の冗長(!?)な部分をそぎ落とし、鮮明な問題意識をもとにそのエキスの部分を凝縮した密度の濃いものであった。
冒頭の第1章で、まず労働が人にとってどのような意味を持つのかというところから説き起こす。マルクスやフーコーなどを引用しつつ、「それは苦役なのか、生き甲斐なのか」と問いかけている。そして「労働には本来労働者に喜びを与える側面と苦痛を与える側面とが含まれており、条件次第でいずれかの側面がより強く意識される」としたうえで、「法と政策の課題は、労働ができるだけ多くの労働者に、できるだけ多くの喜びと生きがいを与えるような客観的な条件を作り上げることである」と結論付けている。
そう言えば、若いころ、労働法研究会の機会に西谷さんが「本来労働は人の喜びであるはずだ」と口にしていたことがあった。それ以後も、『労働法における個人と集団』や『規制が支える自己決定』などの労作をはじめとしてこのテーゼが一貫して追求されており、労働法学者としての根本的な問題意識がここにあったことをあらためて知った。
それとともに、この時期にこの書物にかける西谷さんの意気込みが痛いほどよくわかった(と勝手に思った)。
しかし、その西谷さんの思いは果たして今の社会において活かされているのだろうか。
本書を読み進む中で、私には、西谷さんの怒り、嘆きが痛いほど感じられた。西谷さんの議論の立て方は、いつも心憎いほど行き届いたもので、緻密で考え抜いた議論を展開し、異なる見解も公平に正面から取り上げたうえで、ディーセント(研究社の英和辞書では「穏当な、慎みのある、上品な」という意味が先ず記されている)な立場から丁寧な反論を加えるというもので、それ故にこそ立場を超えて幅広く受け入れられ、労働法学会をリードしてきたと言えるのだが、本書においてもそのディーセントな姿勢は貫かれていることはいうまでもないものの、その言葉の背後に、この現状への激しい怒りの焔を痛いほど感じたのである。
ディーセント・ワークの権利を保障した憲法から説き起こし、丹念に資料を拾いつつ、それが国と社会に求められる責務であったのに、特に平成期不況以後の状況は、戦後65年の歴史の中でも特別に複雑で困難な状況下に置かれており、今ほど憲法制定以来の課題であったディーセント・ワークが重要な意味を持つ時期はない、と断じている。
そのうえで、ディーセント・ワークの条件、という視点から、安定的な雇用と公正かつ適正な処遇という整理をしつつ、労働法の全体像についての西谷説を展開している。
ここでは、これまで学者として自らに課してきた法を取っ払って、思うところを自由に飛翔させているように感じられる。それぞれ実に内容豊かで心を打つ議論である。たとえば労働と人とモノの関係を論じる箇所である。労働を商品と捉えたことは、実は歴史的には進歩的側面からの議論であり、そのこと自体はまだ今日の日本では現実にも重要であることを押さえつつ、労働者は「労働は売っているが魂までは売っていない」ことを絶えず明確化することが不可欠だと指摘する。思考の幅と奥行きがあり、バランスが取れているのだ。
この本論部分は最新の判例や議論を踏まえており、コンパクトな労働法の教科書として充分に通用するものである。最近は労働事件もなく不勉強であったわが身にとって、いい勉強をさせてもらった。
読み終えると、本書は、西谷さんがこれまでの半生を捧げてきた労働法を切り口にして、学者というより一人の人間として、人生の総決算という熱い思いが込められたものだとの思いが一層強まった。たまたまご本人にお会いした時、「白鳥の歌ですね」と言ったら「俺を殺す気か」と返されたが、西谷さんの怒りと嘆きと、ともすれば諦めにも近い思いも漂わせつつ、しかしなおこの時代を生きざるを得ない若い人たちに、未来を切り拓く期待と希望を込めて手渡すものと言えば言いすぎであろうか。

出版社 旬報社
発行日 2011年1月20日
定 価 2100円
四六判上製/357頁

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