民主法律時報

日本の歴史に輝く憲法9条の源流――歴史をかえりみて改憲を許さぬ決意新に

弁護士 橋 本   敦

1 今日の憲法をめぐる情勢

 言うまでもなく、「憲法改正手続」を定める憲法96 条の改正はその入口、改憲の最大のねらいは、9条の「戦争の放棄」の廃棄と国防軍の設置・戦争する国への道である。
 自民党は、本年3月17日の定期大会で決定した2013年度の運動方針で「自主憲法制定に向けた取り組みを加速させてゆく」と明記し、これを受けて安倍首相は今国会の施政方針演説で、政府がこれまで憲法上許されないと言明してきた「集団的自衛権の行使」を認めるように検討すると明言し、さらに「憲法改正に向けた国民的議論をおこしてゆこう」と呼びかけた。
 こうして朝日新聞(4月9日)は、「改憲・参院選争点に浮上」と大きく報道し、続いて「こうした中、自民党が期待するのが日本維新の会だ。橋下徹共同代表は、自民党と我々の勢力を合わせて参議院の3分の2を確保すればよいと指摘し、憲法の改正に向けて参院選後のキヤスチングボートを握る戦略を描く」と書いている。

 憲法改正問題は、目前の参議院選挙における重大問題となった。
 その維新の会が党綱領で憲法改正について、どう書いているか。それは次のとおり、まことに驚くべき不見識と独善の謬論と言うほかないものである。
 「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶の占領憲法を大幅改正」
 「過去の歴史を正しく見ない者は、未来にも盲目となる」とはドイツのヴァイツゼッカー大統領の名言であったが、まさにこの日本維新の会は、平和をめぐる日本人民の過去のたたかいの歴史を全く顧みないばかりか、今日の日本と世界の新しい平和の動きにも盲目となっている。
 我が国の近代史には、今日の「憲法9条」を生み出す源流と言うべき貴重な先人の軍備全廃を求める平和のたたかいの歴史がある。その歴史を今顧みて、今日の憲法をまもるたたかいに確信を深めたい。
 
2 中江兆民の時代に先がけた軍備全廃の主張

 日本の近代史に輝く反戦平和のたたかいは、まさに憲法9条の源流であったというべきものであり、この歴史的事実を検証する意義は極めて大きく、かつ、重要である。
 早くも明治天皇体制に抗して、中江兆民は1887年(明治20年)に公刊した「三酔人経綸問答」で軍備全廃を主張した。

 これについて、京大教授山室信一著「憲法9条の思想水脈」(朝日選書)は、その重大な歴史的意義を次のように述べる(122頁以下)。
「中江兆民は次のように言う。
『日本が、アジアの片隅から自信をもって立ち上がり、一挙に自由と友愛の境地にとびこみ、要塞を破壊し、大砲を鋳つぶし、軍艦を商船にし、兵士を良民とし、ひたすら道徳の学問を究明し、工業技術を研究し、ただ純粋に哲学を学び尊重することになったら、文明国だとうぬぼれているヨーロッパ諸国の人たちは、はたして心に恥じないでいられるでしょうか。もし彼らが頑迷凶悪で、心に恥じないどころか、日本が軍備を撤廃したことに乗じて荒々しくも侵攻してきたとして、私たちが一切の刃物を手にせず、一発の銃弾ももたずに、礼儀をもって迎えるとしたら、彼らははたしていったいどうするのでしょうか。剣をふるって風を切ろうとしても、剣がいかに鋭利であれ、軽くてとりとめのない風をどうすることもできないでしょう。私たちは風になりましょうよ。・・・・・
 小国の私たちは、彼らが内心ではなりたいと憧れながら未だに実行できないでいる無形の道義というものをもってなぜ軍備としないのでしょうか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等をもって砦とし、友愛を剣や銃砲とするとき、これに敵対するものが世界にあるでしょうか。』
 ここには戦争放棄・軍備撤廃を世界に先駆けて実行し、一国をあげて道徳と学術・技術の向上をはかるという意味で、戦後日本において多くの国民が共感をもって迎えた「文化国家」論とまったく同じ国家像が、明確に掲げられている。そして、それが憲法9条の理念とまっすぐにつながっている思想であることは、誰の目にも明らかなことと思われる。戦争放棄・軍備撤廃という主張は、憲法9条によって初めて現れた新奇なものではなく、それに先立つ六〇年ほど前に日本人自身によってすでに発せられていたのである。さらに、他国が望みながらも実行できないでいる戦争放棄・軍費撤廃に日本が率先して踏みきることを促し、その意義を説く文章は、『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ』という憲法前文と同じスタンスに立つものであろう。」

 山室教授のこの指摘は重要である。まさに、中江兆民はすでに早く明治の反動的体制下にあっても、今日の我が平和憲法が示す戦争の放棄・軍備撤廃による平和と正義の新しい歴史の進歩と発展を見すえていたのである。

3 社会民主党の結成と軍備全廃綱領

(1)1901年(明治34年)5月18日の社会民主党の結成と平和綱領
 次に重要な歴史的事実は、片山潜、幸徳秋水、木下尚江、西川光次郎・安部磯雄らによる社会民主党結成と社会民主党の軍備全廃綱領である。
 社会民主党は「純然たる社会主義と民主主義に依り、貧民の懸隔を打破して全世界に平和主義の勝利を得せしめん」ことを目的として結成された。それは日本で最初の社会主義政党の誕生である。その「宣言書」には「万国の平和を来すためには、先ず軍備を全廃すること」が重要課題に掲げられた。

 そして、「行動綱領」の説明では、「戦争は、これ野蛮の遺風にして、明(あきらか)に文明主義と反対す。もし軍備を拡張して一朝外国と衝突するあらんか、その結果や実に恐るべきものあり。我にして幸いに勝利を得るも、軍人はその功を恃(たの)みて専横に陥り、終(つい)に武断政治を行うに至るべし。これ古今の歴史に照らして明なる所なりとす。もし不幸にして敗戦の国とならんか、その惨状もとより多言を要するまでもなし。兵は凶器なりとは古人も已(すで)にこれを言えり。今日のごとく万国その利害の関係を密にせるに当り、一朝剣戟(けんげき)を交え弾丸を飛ばすことあらば、その害の大なるは得て計るべからず。ここにおいて我党は軍備を縮小して漸次全滅に至らんことを期するなり」として、軍備撤廃・戦争廃止を政党の綱領として初めて訴えた。それは、当時における実に堂々たる平和の訴えであった。

 しかし、この社会民主党は、無念にもその前年に制定され、労働組合死刑法と言われた治安警察法により即日解散にされた。それは、やがて日清戦争・日露戦争へと向かう軍国主義体制強化の道であった。そして、その解散の最大の理由は、社会民主党が「軍備全廃」を主張したからであった。

 工学院大学教授松下芳男「反戦運動史」は、次のように書いている。
「しかしこの宣言発表の日が、その党の最後の日であって、時の内務大臣末松謙澄は、逸早く本党の解散を命じた。斯くして『国際平和』を宣言した我が国最初の団体は、ただ一日の存在をも許されなかったのである。」
 さらに、これについて、山室教授の前掲書は、次のように書いている。
「この綱領が印刷所に入る前、所轄の警察署長が訪れ、綱領の軍備撤廃、一般人民投票制、貴族院廃止の三項目を削除するならば、結党を許可するとの政府の内意を伝えたが、安部らは『あくまで理想主義で進む決心であったから、これらの三ヶ条を削除することは卑怯の行為であると考え、断然これを拒否』した。このため、予告通りに治安警察法違反として即日結社禁止の処分を受けることになったのである。こうして軍備撤廃を明確に綱領に掲げた社会民主党は、結党と同時に解散を命じられた」(143頁)

 このように軍備撤廃、そして平和という国民の生存権にかかわる根源的要求を明治政府は権力によって圧殺したのであった。しかし、幸徳秋水らが権力に抗して、勇敢に平和の理念を掲げて立ち上げた社会民主党の理念は、我が歴史の中に今もその光を放っている。まさに、今日の憲法9条の源流をここに見ることができるのである。

(2)田中正造の非戦論
 次に注目すべき反戦・平和のたたかいは、足尾鋼山の公害による住民の苦しみの解決のためにその生涯を捧げた田中正造にも見ることができる。
 田中正造は衆議院議員として足尾鉱毒問題の解決を政府に迫ったが、1900年(明治33年)2月被害農民が請願の途上、凶徒嘯聚罪で  名が逮捕・起訴されたことに抗議して議員を辞任、そして、1901年12月に、もはや他に方策がないとして幸徳秋水が書いた嘆願書をかかげて、天皇への直訴を試みたが果たすことができなかった。

 一方、庶民が苦しむ戦争に反対の田中正造は、1902年(明治35年)ごろから世界海陸軍全廃論を説き勧めていた。
 そして、日露開戦前にも「鉱毒問題は対露問題より先決問題なり。・・・・・わが理想は非戦なり」(1903年10月26日、日記)と書いて開戦に反対していたが、日露戦争が強行されるに至って1904年(明治37年)4月6日の原田定助宛書簡では「正造は今日といえども非戦論者なり。倍々(ますます)非戦論者の絶対なるものなり。然れども同胞の、海外への国法上の出兵あり、なんぞその悲惨なる」と書いた。さらに「畢竟(ひっきょう)小生の主義は無戦論にて、世界各国皆海陸軍全廃を希望し、かつ祈るものに候。ただ人類は平和の戦争こそ常に奮闘すべきもの。もしこれを怠り、もしくは油断せば、終に殺伐戦争に至るものならん。誠に残念に候」(1904年9月9日、佐藤良太郎長女宛書簡)と書いて、軍備全廃に向け平和のために奮闘すべきことを自他に課していたのである。(山室教授の前掲書)

 「世界各国皆海陸軍全廃せよ」と、ここにも我が歴史上、今日の9条につながる先駆的な平和の理念の発露を見ることができる。

4 平民新聞の「軍備撤廃・戦争禁絶宣言」

 明治政府の弾圧に屈せず、反戦平和のたたかいは続いた。
 いよいよ日清・日露戦争へと風雲急を告げるなか、1903年(明治36年)3月、堺利彦・幸徳秋水・木下尚江・内村鑑三らは平民社を設立し、週刊「平民新聞」を発行して反戦のたたかいを進めた。

 その創刊号(1903年11月15日号)は「自由、平等、博愛は人生世に在る所以の三大要義也」にはじまる五ヶ条の宣言をかかげ、平和と戦争の禁絶については次のように宣言した。
「吾人は人類をして博愛の美を尽くさしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。」
 ここには、幸徳らの世界的視野にもとづく平和の理念が明快に示されている。

 その翌年1904年(明治37年)に至り、開戦はもはや必至の情勢となるや「平民新聞」はその第10号(1月17 日)を 非戦論特輯号として、「吾人は飽くまで戦争を非認す」との社説をかかげ、次のように宣言した。
「時は来たれり、・・・・・正義の為に、天下萬民の利福の為に、戦争防止を絶叫すべきの時は来たれり。・・・・・人種の区別、政体の異同を問わず、世界をあげて軍備を撤去し、戦争を禁絶するの急要なるは、平民新聞創刊の日、吾人既に宣言せり。」
 まさに、これは、気迫にみちた反戦の宣言である。
 そして、さらにきびしく
「(戦争は)之を道徳に見て恐る可きの罪悪也。之を政治に見て恐る可きの害毒也。之を経済に見て恐る可きの損失也。社会の正義は之が為に破壊され、万民の利福は之が為に蹂躙せらる。」
と批判して、今日に通ずる正論である「戦争の違法性」をきびしく解明した。

 しかし、戦局がすすむにともない明治政府の弾圧は激しさを加え、幸徳秋水・堺利彦らが新聞紙条例違反により相次いで検挙投獄され、平民新聞は発行禁止、発売禁止、印刷機械没収等の処分を受けた。その結果、遂に「平民新聞」は1905年(明治38年)1月29日の第60号を最終に廃刊となった。

 塩田庄兵衛教授は、その著「弾圧の歴史」(労働旬報社)の中でこの間の歴史的事実を次のように述べている。
「政府は、さっそく治安警察法を使って、社会民主党を即日禁止するという弾圧を加えました。とくに支配階級を刺激したのは、軍備廃止、一般人民の直接投票、貴族院の廃止など、平和と民主主義を求める要求で、これら支配階級にとってがまんのならない主張のために、この党は即日禁止されたのでした。
 日本の近代史は、日清戦争から太平洋戦争まで、戦争につぐ戦争によって血なまぐさくいろどられています。このような条件のもとで、このような情勢に立ちむかう社会主義運動の事実上の初陣は、日露戦争にたいする反対闘争でした。幸徳秋水、堺利彦、木下尚江などの先駆的社会主義者が平民社を結成し、週刊『平民新聞』を発行して、日露戦争反対の活動を展開しました。日本の人民に呼びかけるばかりでなく、『敵国』ロシアの社会民主労働党(今日のソ連邦共産党の前身)にも呼びかけて、帝国主義戦争反対の国際的共同闘争を誓いあいました。これら、軍国主義・帝国主義に反対する勇敢な闘争は、むろんきびしい弾圧を受けました。『国利を害し、社会秩序を壊乱すべき事項を掲載した』という理由で、新聞はたびたび発売禁止をうけ、編集者や執筆者は罰金刑だけではなく、懲役刑を宣言されて投獄されるという、いわゆる『裁判攻め』にあいましたが、かれらは屈しないでたたかいつづけました。しかしこの先駆者の奮闘が、のちに次第に大きな反戦・平和擁護の大衆運動に発展していく先がけをしたという意味で、時流に抵抗し、弾圧に屈せず展開された日露戦争反対闘争は、日本人民の誇るべき戦闘的伝統として生きています。」(20頁)

 この「平民新聞」の「終刊の辞」は新約聖書の「一粒の麦」を引用して、「平民新聞は一粒の麦種となって死す。多くの麦は青々として此より萌出でざる可らず」「平民新聞死す、嗚呼、平民新聞本月本日を以て死す、知らずや全紙眞紅の文字は、是れ満天下志士の胸中の熱火、眼底の涙血なり」と書いた。なんという気迫に満ちた平和への熱い信念であらうか。そして、この最終号は、1849年、マルクス・エンゲルスがプロシヤ政府によるライン新聞廃刊に対する抗議として全紙面赤刷りで発行した故事にならって、全紙面赤刷りで出された。

 その一粒の麦は死なずにたくましくもえだして、今、わが憲法第9条となって、世界に向かって花開いているのではないか。このかけがえのない歴史の「一粒の麦」を今われわれは、歴史に学び誇りをもってまもりぬかねばならない。
 このように、今日の憲法9条の源流はまぎれもなくわが日本の近代史のなかにあるのである。歴史を顧みて我々は憲法9条の歴史的意味を自覚する。

5 憲法9条をまもりぬく決意あらたに

 終わりにあたって、黒田了一教授がその「憲法学」で次のように書かれていることを想起しよう。
「第二次世界大戦の悲痛な体験と反省にもとづき、ふたたび戦争をひき起すような行為は絶対にしないとの決意をかため、世界に向かって恒久絶対平和の国是を宣明したわが国が、その後の国際情勢の変化により、あるいは特定国の圧力に屈して、かんたんに国家の基本方針を変えるようなことがあるならば、それこそ世界の不信を招き、国を破滅にみちびく最も危険な道をえらぶものといわねばなるまい。
 要するに、日本国憲法の基本的な態度としては、いわゆる「力による平和」、たとえば「自衛軍の増強による国の防衛」、或いは「集団安全保障機構への軍事的参加による国の安全」といった体制をみとめていない。それよりも、原水爆時代における最もすすんだ、人類文化の最終段階にあたかもふさわしい、「全面的な戦争の放棄」、つまり「絶対非武装・恒久平和」の理想をかかげて、「いっさいの国際紛争は、これを平和的な手段を通じてのみ解決する」との決意を表明しているのである。それは、国連憲章の現体制よりも、さらに一歩すすんだものであり、日本が率先して、かかる態度を採ることにより、これをやがては全世界の諸国に及ぼし、もって世界平和に寄与し、人類をその破滅から救済せんとの大理想・大悲願にもとづくものである。」(193頁)

 このように、黒田教授が言われる9条にこめられたこの「大理想・大悲願」の源流を我が国近代史の中に見ることができることは、我々の誇りである。

 日本維新の会が、平和憲法は「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめた幻想」であると誹謗することが、いかに歴史の真実に背く暴論であるかは、以上に述べた事実から明白である。
 そして、「孤立」どころか、日本の平和憲法は、今や世界から注目され、希望と期待の的となっていることは、憲法会議の梅田章二幹事長がその演説で「1999年オランダハーグの世界会議では、『世界中すべての国が日本の憲法9条のような政府が戦争を禁止する決議を採択すべきだ』という平和アピールがありました。」と言われているとおりであることに、我々はさらなる誇りと確信がもてるではないか。
 自民党や日本維新の会が唱える歴史を知らぬ皮相な改憲論を断固許さず、近代日本の非戦のたたかいの歴史に、その源流を見る我が憲法9条について、決意新たに憲法をまもりぬくたたかいを進めよう。

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