島根大学名誉教授・弁護士 遠藤 昇三
団結権(団体交渉権・争議権も同様に考えているが、ここでは狭義の団結権に絞って述べる)は、従来においても、第一次的には労働者の権利とされて来た。しかし、同時に労働組合も団結権の主体であるとされるだけでなく、その団結権が労働者のそれに優位すると考えられ、いつのまにか労働者の団結権は、独自の権利としてではなく、せいぜい労働組合の中におけるメンバー権に矮小化されていた。その後現代においては、基本的枠組みに違いがないが、労働者の優位あるいは労働者の団結権の重視が、主張されては来ている。私は、それを徹底させて、団結権を労働者個人のみが有する権利と考えている。
そうした見解を唱える理由の第一は、5分の4以上の労働者が団結権を行使しない状況にあることである。従って、労働者が団結権という権利を行使しないということを視野に容れた理論が必要である。それは、団結権不行使(団結しない自由である)の法的価値を積極的に承認すること、積極的な権利行使の道筋を理論内在化することでなければならない。第二は、団結権保障をめぐる憲法と法律との乖離である。団結権(とりわけ問題となるのは、ストライキ権・争議権ではあるが)の法律による制限・禁止が、憲法第 条の存在に拘わらず行われるとともに、それを合憲とする最高裁判例は、全く揺らいでいないのであるが、こうした事態を団結権論に内在化して捉えることが、要請されるからである。第三は、企業社会に対抗しそれを克服しうる団結権論が、求められていることである。
それ故に、第一には、「団結権=目的」(その反面が「団結=手段」)という捉え方に転換しなければならない。それは、第一には、団結権を生存権(広く組合の目的)を実現する手段とする従来の捉え方からの脱却である。団結権が手段である限り、生存権が別の方策により実現されれば、団結権の制限・禁止の正当化の余地が生ずるし、現に代償措置論が、制限・禁止を正当づける根拠とされて来たのである。第二には、団結を目的とし結果的に団結を至上の価値とするような、従来の捉え方の放棄である。即ち逆に、団結は、あくまで労働者の目標・目的実現の手段であって、決してそれ自体が目的ではないことである。この両方の捉え方が成立するためには、団結権は、労働者個人の権利でなければならないのである。
第二には、団結権論は、団結の質を問うことに開かれていなければならない。それは、「団結=手段」論によって可能となるのである。何故なら、団結が手段である限り、如何なる手段としてどう活用されるのか、現実に如何なる働きをしているのかが、常に問題化しうるからである。以上の事柄を一言で言えば、「団結権の行使・不行使」が、労働者個人という権利主体に委ねられるということである。
それでは、団結権が労働者個人の権利であるということの意義は、どこに見いだされるのであろうか。
第一には、「団結しない自由」の積極的承認(この帰結としてのユニオンショップ違法論は、ここでは展開しない)である。それは、一つには、従来の「団結を通じた自由の回復・実質的自由の確立」という立場を、放棄するということである。それはまた、労働者を従属的労働者とのみ見る捉え方から、「主体的労働者」性を強調する捉え方への変化によるし、それ以前に、団結による自由の抑圧という事態の広範かつ深刻化にもよる。もう一つは、強制としての組織強制の法的否認であり、組織拡大・組織維持の機能は、団結の自前の努力に委ねられることを意味する。さらには、団結を結成しそれに加入するか否かは、労働者の自由な選択に基づく決断であり、「団結しない自由」とは、既存の団結の現状・ありように対する労働者による否定的・拒否的選別でもある。
第二には、労働者個人の団結権の優位・尊重の徹底のための、団結体(具体的には労働組合)の団結権の否定である。そこまで行き着くのでなければ、労働者個人の団結権は、完結しない。では、現に団結体が存在する場合、その団結権は認められるのであろうか、またそれはどこから生ずるのであろうか。それは、労働者個人が自らの団結権を団結体に委ねる(授権と称する)ことによってである。どのような授権を行うかは、労働者が決めることである。多様な労働者による多様な授権を調整することは、労働組合にとって、短期的にはマイナスであり負担となるであろう。しかし、そのことによって、労働組合の組織力・闘争力の向上が、実現されるのである。
「民主法律時報」534号(2018年4月号)で、労働組合の量的拡大という観点から「企業別組合の個人加盟の組合への切り替え」という提言をしているが、これは、従来の団結権論のままでも成り立つ議論ではある。しかし、権利論の観点からすれば、その提言に最もふさわしいのは、「労働者個人の団結権」だと、私は考えている。またあえて言えば、長年にわたって日本の労働組合の弱点・欠陥として企業別組合が問題とされ、それからの脱皮が主張され取り組みもされて来たが、結局今日においても成功していないが、それは、一面では、「企業別組合からの脱皮」の権利論がなかったためと思われる。「労働者個人の団結権」論は、そのための権利論としても意義を持ちうると思われる。