民主法律時報

《寄稿》 「連帯」について考える

島根大学名誉教授 遠藤 昇三

 私はかつて、団結(=労働組合)の基盤について、検討したことがある(拙著『「戦後労働法学」の理論転換』法律文化社、2008年)。そこで得られた結論として団結の基盤は、今日においては、(「階級」は現実性がなく)せいぜい「労働者としての利害の共通性」であり、職種は限定的で 産業も消極的であり、より現実的なのは「地域」ではあるが、最も強固には「企業」そして職場・職場集団である。ただ、身分・地位の同質性(広い意味であり、例えばパートタイマーや女性)も、想定される。しかし、ここで考えたいのは、そうした団結の基盤を超えて出現しうるあるいはさせるべき「連帯」(協力でも共同でも良いが、ここでは「連帯」という用語を使用する)である。その理由は、第一に、労働組合の組織率の向上が、現実性を持ちえないからである。団結の基盤を探ることにより、組織率の向上に結びつけるという道筋が、見えて来ていないのである。第二は、(言わば、団結にまでは至らない)「連帯」の形成により、労働者の権利・利益の増進を、少しでも実現したいためである(本稿は、『民主法律時報』2020年12月号掲載の「平等と能力・競争主義について考える」の、次の課題という意味も持つ)。

予め確認しておくべきは、日本においては(例えばフランスでは、日本よりさらに低い組織率に拘わらず、ストライキには90%以上の労働者が参加するといったことと対比して)、組合員が組合員以外の者と「連帯」することが、殆どないことである。他方、労働者として(組合員であれば、組合員としてではなく一個人として)、労働者や市民と「連帯」することは、それなりに行なわれて来ていることである。従って、ここで主として念頭にあるのは、組合員とそれ以外の人々との連帯である。

「連帯」を志向する場合、二つの側面を区別(相対的区別でしかないが)して、論ずべきである。一つは、「連帯」の範囲、言わば連帯の量的側面である。即ち、どの範囲の労働者なり市民と、連帯するのかである。それは、事実問題であるとともに、規範的問題でもある。何らかの理不尽な事態に対する抵抗(例えば、不当な理由による労働者の解雇への反対・批判や撤回のための取組み)にせよ、より積極的な労働者の利益・権利の増進を目指す取組みにせよ、求められる「連帯」は、最も幅広いものであることが望ましい以上に、そうでなければならない。何らかの理由により、「彼・彼女とは連帯しない」という選択肢は、除外されねばならない。そうだとすれば、「連帯」の対象は、思想や政治的立場あるいは意見が大きく異なる人々にも、広げなければならない。何しろ、思想・政治的立場・意見等が同じ人々との「連帯」の構築は、容易いことであって、一番努力すべきなのは、自分から遠い人々との「連帯」である筈である。そうした人々を予め排除しての「連帯」であっては、ならないのである。結果として「連帯」が出来なかったとすれば、それにはいろいろ要因があろうが、この面での努力不足として捉えるべきである。

もう一つは、「連帯」の言わば質的側面(但し、ここでその全ては論じない)である。強調したいのは、(浅い「連帯」か深い「連帯」かと言うよりは)「連帯」の閉鎖性・開放性という問題であり、勿論開放性が求められる。何故なら、当面「連帯」すべき課題が何であれ、それが解決すれば、次の課題に取り組むべきことになるが、そこにおける「連帯」は、全く新たな一からの構築ではない筈である。もし一からの構築にならざるをえないとすれば、それは、その「連帯」が閉鎖的であるためである。開放性があれば、それを継承して、次の「連帯」が構築出来る筈である。言わば多段階的・多層的に「連帯」を構築することが、求められるのであるが故に、「連帯」は開放的でなければならない。

こうした「連帯」が現実化し、それが団結につながるのであれば、幸いである。

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